1 はじめて夜行列車に乗車
2007年10月12日
ムーンライトながら
1968年から運行されていた「大垣夜行」を1996年に代替する形で運行が開始された列車である。この列車に乗って京都に行こうという提案が母親からあって乗ることにしました。乗車する2週間前でしたが数少ないコンパートメント席をゲットすることができました。出かけるのは秋の鉄道の日周辺で当時「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」という青春18きっぷと似た快速普通列車限定のきっぷを使いました。(2012年以降は秋の乗り放題パスに名称変更)夜行列車は初めてだったのでワクワクしてました。
使われていた車両は写真のJR東海373系車両です。3両編成が3本連結された9両編成で静岡駅から普通列車として東京駅まで運転されてそのままムーンライトながら号になります。ホームは撮影するお客さまでいっぱいとなっていて当時は寝台急行「銀河」が大阪まで運行されていました。
座ったコンパートメント席4人掛けのボックス席ですが私と母親は進行方向と反対向きの席でした。乗り放題きっぷは0時から有効なので日付が変わって最初に停まる小田原駅までの乗車券を別途購入して乗りました。全席指定だったので車内は思ったよりゆったりしてましたが同年の3月までは一部自由席が設定されてたのでピーク時はすごい混雑だったろうな…と予想してました。
乗車に当たってはアイマスクと枕と毛布を用意してましたがなかなか眠れず、向かい合わせのコンパートメント席でしたので向かいの方のために足を自由に伸ばすことができませんでした。(向かいには乗車はありませんでしたが…)
よく眠れなかった次の日は名古屋駅に到着後、すぐに座席の移動。豊橋から全席自由席になり名古屋駅からは後ろの7号車から9号車が名古屋駅で切り離されるため前へ一斉に大移動。開いている座席は当時かろうじてあったのかは記憶にありません。
7時前に大垣駅に到着してここで別のホームに停まっている普通列車に乗車しますが乗り換えのお客さまが席取りのために走る「大垣ダッシュ」が繰り広げられます。走るお客さまがいる中で私たちはゆっくり移動してたので席は確保できず…米原駅からは先行する新快速に大半が乗り換え車内は空きましたが京都までは立ちっぱなしでした。京都に到着後は近くの東寺、清水寺の2か所を訪問しました。夜には京都市内のカウンター式の居酒屋で食事後すぐに京都を出発して大垣からは再度ムーンライトながらに乗って帰りました。ぐっすり眠って埼玉に朝到着しましたがなんとどこかで用意した毛布を忘れてJRのコールセンターに連絡しまくりました。結局毛布はみつからず…
2 ブルートレイン北陸号で母、祖父母と金沢へ
東京と大阪を結ぶ寝台急行「銀河」が廃止された2008年。11月に母、祖父母の4人で3泊4日の北陸旅行に行きました。当時は北陸新幹線がまだできる前で首都圏から北陸へは新幹線で越後湯沢まで乗車し特急「はくたか」号に乗り換えるというのが一般的でした。そしてもう一つの手段ブルートレイン「北陸」号に乗車ができることになりました。
2008年11月13日
夜22時を過ぎた上野駅の13番線ホームで待っていると客車を前にして北陸号が機関車に押されて入線してきました。早速写真を撮影しますが機関車の空調の音が大きく驚いたのを覚えています。私たちが利用したのはB寝台の一人用個室「ソロ」で見た感想はまるで秘密基地のように狭いなあということ。客室扉は少し癖があり閉めるのに少し苦労しました。
家では布団を敷いて寝ていたのでベットは初めてでした。よく揺れるので落ちないか心配でしたが揺れが心地よく好きな列車の中なので気になりませんでした。先述のムーンライトながらは夜間でも照明が付いたままの走行でしたが北陸号は寝台列車、明かりが消えると部屋が真っ暗になりました。漆黒の闇の中をゴトゴトと揺られていく感覚は今までの列車では味わったことはなく気持ちよかったです。
翌日に目覚めると一瞬ここどこだろう?と外を見てああ寝台列車の中なんだなあと感じました。途中長岡駅で機関車と進行方向が変わり上野に戻ってるんじゃないかと思いましたが北陸本線の車両が走っていたので金沢に向かっていることが実感できました。北陸号は6時半ごろに金沢に到着して市内のホテルで朝食を食べた後兼六園や金箔体験などを通して金沢観光、翌日には加賀温泉に移動して旅館でカニを手をかゆくしながら食べました。
最終日は福井で東尋坊を訪問してから特急雷鳥号に乗って金沢へ。金沢駅でははくたか号の連結を見て出発しました。はくたか号は新潟県の直江津から当時在来線の最高時速160km/h運転をしていて新幹線かと思うほどの速さで、越後湯沢は乗り換え拠点として非常に多くのお客さまであふれていました。北陸号の寝台券はなくしてしまいましたが写真で納めてたので何よりでした。寝台特急北陸号は私が中学卒業をする2010年3月に廃止、2015年3月には北陸新幹線が開業してはくたか号は役目を終えました。東京金沢は今は最速2時間半ですがこの時のようなゆっくりした旅もいいものです。
3卒業記念に一人広島旅!
2010年3月に中学卒業を控え大宮工業高校への進学が決まりました。鉄道好きの私としては鉄道会社への就職実績がたくさんある池袋の昭和鉄道か上野の岩倉希望でしたが費用面と必ず鉄道会社に入れるわけではない真実を知り断念しました。
そんな中卒業旅行として青春18きっぷを使って一人旅をすることに。広島県に決めましたが一人旅は初めてで少し不安でした。旅行をするにあたって時刻表を読みましたが山陽本線の姫路と岡山の間の本数が少ないことに驚きました。初めての携帯電話も持たせてくれました。
2010年3月23日
青春18きっぷで乗車するのは18きっぱーの相棒「ムーンライトながら」です。初めて乗った2007年の時点では定期列車でしたが2009年に臨時列車になって車両が変更になりました。前回母親と乗ったムーンライトながら号は今回は自分一人で少し寂しい気分でした。列車は定刻で東京駅を出発してガタゴトと揺れながら走ります。周囲は私と同じような一人旅の方が多く、車掌さんによる検札を済ませて何とか寝ました。
2010年3月24日
翌日列車は大垣駅に到着して「大垣ダッシュ」を楽しんだのち京都で金閣寺、醍醐寺、奈良で法隆寺を見学。大阪市内を経由して尼崎から相生まで新快速に乗車しました。JR西日本のエースと言われてる新快速は時速130km/h運転を行っていますが乗った感想は
はえええええ
もはや特急列車で本当に料金をとらないのかと思いましたが一気に兵庫県を駆け抜けて相生駅で乗り換えます。しかしここで事件が起きました。2分乗り換えで岡山方面の列車に乗り継がなければなりませんがもたもたしてたのとお客さまが多かったことに列車に乗ることをためらってしまいました。そして車掌の笛が鳴り響き…
プシュー! ガタン!
扉が閉まってそのまま発車!私は目の前の乗るべき列車を逃がしてしまったのです。その場で泣いてしまい時刻表を破り捨てました。親に電話しましたが次の列車に乗りなさいの一言だけでした。その日は広島駅近くで泊まるため宿に電話をして遅れてしまうことを伝えると大丈夫ですよとなりました。
相生駅で30分以上待って三原行に3時間近くの乗車です。兵庫と岡山の県境はかなりの山で何もなく、岡山駅で帰宅を急ぐお客さまがたくさん乗ってきました。
三原駅で乗り換えて目的地の広島駅へ向かいます。途中八本松駅ですれ違った上り貨物列車の最後尾に機関車が連結されてたのに驚きました。これは瀬野駅と八本松駅の間が上り急こう配が続くため開業時から上り貨物列車は後ろから補助機関車を連結して運転してて「セノハチ」と呼ばれてます。広島駅に到着したのは22時44分で尻が痛くなりました。広島駅近くのユースホステルにチェックインしましたが外国人の方が多かったです。
翌日は宿泊してる方とあいさつを交わしたのちに路面電車の一日乗車券を購入して原爆ドームや宮島観光を楽しみました。広島と言えばお好み焼きを食べるべきところでしたが当時一人で飲食店に入るのが恥ずかしく立ち食いうどんで済ませました。
2010年3月26日
広島から帰る日になりました。朝6時頃に広島駅を出発して山陽本線、姫路より播但線で和田山、福知山を経由して小浜線、敦賀から米原で東海道本線に合流して大垣22時49分発のムーンライトながら号で東京まで揺られました。
ぐっすり眠って翌日に東京駅に到着後は米沢の父の実家へ向かうため上野から常磐線で水戸、水郡線で郡山、東北本線を北上して仙台、仙山線で奥羽山脈を越えて山形から米沢へ向かいました。2日間で広島から米沢まで列車だけをひたすら乗り継いで移動距離は1459.3km!このことを話したら本当に驚いていました。15歳の自分が良くこれだけ移動できたなあと感じました。
米沢で親戚と過ごした後は米坂線で新潟に出て長岡から上越線を南下して高崎線で無事埼玉に帰りました。なおこの時新津駅で友人と合流する予定がありその前からメールが来ていたのですが携帯電話を使い過ぎて利用制限がかかって連絡できなくなり友人に会ったときキレられました(笑)
今回は夜行列車との出会いがあった中学校時代をお伝えしましたがどれも忘れられない旅となりました。次回から高校時代を1年ごとに投稿していきます。本日もブログをご覧くださりありがとうございます。
中学時代に乗った主な路線
東海道本線 山陽本線 播但線 小浜線 常磐線 水郡線 東北本線 仙山線 奥羽本線 米坂線 信越本線 上越線 高崎線 京都地下鉄東西線 広島電鉄 etc…
中学時代の主な出来事
2007年 靴を隠されるいじめにあう。鉛筆を数十本もとられる
2008年 年間通じて壮絶ないじめにあって一日だけ不登校になる全校集会にまで発展するが周りから攻められる
部活は科学部に所属してたが部長に任命される
2009年 反抗期に突入。当時親とけんかしお年玉で買ったコンボを金属バットで叩き壊す。物を壊す行動に走った。
夜に家出して浦和から入間まで自転車で走る。その後深夜23時に朝霞市で警察に補導される。
父親の自転車を借りて走ってたら警察に自転車を盗んだと疑われる
空手をさぼりまくった末にあいさつせず辞める
合唱コンクールを無断で休むが親に説得されていくことになる。
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